東京下町で若い頃を過ごしたおばあちゃんとの世間話、今年の恵方の北北西からヒッチコック監督の名作「北北西に進路を取れ」を思い出し「当時はよく映画を見ていたよ」といろいろ話しを聞くことができた。
話している姿はとても楽しそうで、昨日のことかのように言葉がどんどん出る出る。聞いているこちらもほっこりというか嬉しくなって、帰っておばあちゃんの若い頃について調べたくなった。
おばあちゃんの言葉をlineの吹き出しのようにして綴っていきます。
北北西に進路を取れ
きっかけは”北北西”でした。おばあちゃんは「今年の恵方は北北西なんですよ」と聞いて「北北西に進路を取れ!って昔・・・」と言って
私はたまたま「北北西に進路を取れ」ってヒッチコックの映画だ!って知ってて
おばあちゃんに「あーそれ映画でしょ」って言ったら、記憶が溢れ出したかのようにいろいろ話してくれました。
よく映画・洋画を見に行ったよ
全部見た。ボロボロ泣いて、外へ出るのが恥ずかしかった
日比谷の映画館へよく通ったよ
アラビアのロレンス!アラビアのロレンス!
アラビアのロレンス
最初何を連呼しているのか分からなかった笑。映画のタイトルでした。ぐぐったら1963年東京オリンピックの前の年の映画でした。驚きでした。そんな昔なんですね。
実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、戦争映画である。日本での公開は1963年12月。
上映時間は227分。主人公の交通事故死で幕が開く衝撃的な冒頭から、彼が失意の内にアラビアを離れる余りに悲痛な終局までを、雄大に描く。((wiki- アラビアのロレンス))
今の人は可哀想だよ。映画館が少ないからね〜
当時に比べたら激減です。いや当時が多すぎるほど映画館があった。
50~60年代の映画館
画像は当時の日比谷映画館((閉館した映画館の写真集))です。残念ながらいまはもうない。

上のブログ記事では当時の日比谷映画街について詳しく載っています。当時のことをいろいろ教えてくれるこういった記事ってとても貴重です。その年代の人のほうが知っているわけだしネットなら何でも情報があるとはいえ、ネットが発達する前の文献をさがすのは素人には難しい。
年間一人10本見ていた計算
まだテレビは普及しておらず、遊戯施設も整備されていなかった1950年代、映画は国民の娯楽を一手に引き受け、公開すれば当たるという時代だった。
1957年から1960年にかけて、日本の映画観客数は年間で10億人を超えた。日本の人口が1億人に満たない時代であり、1人が年間に10回以上映画館に足を運んだ計算になる。そして、1958年から1961年にかけて、映画館数は7,000を超えた。小さな町にも映画館が2~3館はあった。((http://j-pitch.jp/statistics/topics2008_02.html))
毎月、毎週のように映画館へ行って映画を見る時代だったんです。羨ましい。映画は映画館で見たい。
50年代は映画一本の料金60円((過去興行収入上位作品 一般社団法人日本映画製作者連盟))くらい。
当時の物価から考えても今の半額くらいにはなるでしょう。2本立てとかもあったと聞きますし。ちなみに1950年の大卒初任給(公務員)4.223円だそうです。
また1961年に7,231館あった映画館は1970年には3,246館に減少した。この下降傾向は1990年代半ばまで続くことになる。
ヴィヴィアン・リーが美人でね
ビビアン・スーなら知ってるけど?
絶世の美女ヴィヴィアン・リー
ググってびっくり超美人
これだけ美人なら映画に夢中になるのもうなずける。
雑感
ゆとり世代とおばあちゃん・おじいちゃん
戦後、高度経済成長期の日本を生きた人たちの生の声が聞けなくなる日が近い
特に都内や都心のおばあちゃんおじいちゃんの話しが聞ける機会があるなら、聞いてみることをおすすめする。急激に文化の発達した都会の興味深い話が聞けると思う。
ジェイソンキッドを知らないNBAプレイヤーがいるらしい。田臥勇太を知らないみたいなもの
マイケル・ジョーダンを知らずにジョーダン履いてる若い子絶対いる。
ミニシアターってできないかな?やりたいな?
担任先生の出張・お休み→急遽、映画DVD鑑賞。窓際席だったため、暗幕カーテンを速攻しめる。小中の急遽DVD鑑賞ってパターン嫌いじゃなかった。


