生きていく代償と対価、「だから」のその先について

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子供の頃、何の役にも立たない人間になりたかった。

「効率的な人間を志すことは人間的退化だ」なんて言っていたことを思い出す。ステータスや見栄に囚われる大人たちを見るにつけては、俗物と心の中で罵っていた。そういった姿が「大人たち」の目にどう映るかも何となく分かっていたから、私はそれを表には出さなかった。

そんな私も25歳になった。効率的な人間でなければこの社会ではとても生きてはいけないということを知り、ステータスや見栄に囚われた人たちの輪の中でも、笑って聞き流せるようになった。

自分を認めるために、愛するために、認められるために、愛されるために、時に人を見下し、時に縄張りを作り、そういった浅ましさこそが人間らしさで、私はそれを愛おしく…思うには、まだ私の練度が足りない。けれどもそういった光景にも慣れてきた。四半世紀、時間の力だ。

今日も世界のほんの隅っこでちまちまと忙しく生きる中で、ふと思う。生きていくために支払う「代償」と、その対価として得られる「報酬」は、果たして割にあっているのだろうかと。

私は好奇心が旺盛なタイプではない。むしろ殆どの物事に興味を持たない。視野が狭いと言ってもいい。色んな物事からエキサイトメントを得られる人間を羨ましく思う。私は飲酒した時でさえ、気分が全く高揚しない。

そして器用なタイプでもない。他人を上手にあしらうことも出来なければ、むしろつけ込まれることの方が多い。それに気付かなければいいものの、どうにも他人の善意悪意がよく「見える」。

時間、体力、貯金。それらを上手く使って自分をなんとか生かすための人生。たまにそれが、とてつもなく面倒で、どうでも良くなる。費やした労力に対して、私は一体何を得ているというのだろう。

先で多くの物事に関心がないと書いたが、それは自分についても同じことが言えて、要は齢25で投了してしまっても、私は一向に構わないのである。

さりとて故郷の、人が良くてよく騙されて、結果とんでもないダメ男を捕まって要らぬ苦労を買うことになった母親の悲しむ顔や、私の死後の「処理」を仕事として対応せねばならないであろう数々の人間の労力、そして私の死を各々の勝手な解釈で、悼んだり、憐れんだりする、表面的な関わりしかなかった有象無象の声に思いを巡らせるうちに、「終わらせる」ことすら面倒くさくなるというのが一連の流れだ。

ある作詞作曲家の詩に、「死にたくないが生きられない、だから、詩を書いている。」とある。私の場合、別に死にたくないわけではないので、正しくは「死に切れないが生きられない、だから」となるだろうか。

結局死ぬことを選べず生きていくしかないのだから、だからどうなのか、だからどうしていくのか。私はアーティストではないから、だからの先に「詩を書いている」とは続けられない。だからに続く言葉、その余白を埋める答えを、私は見つけて行かねばならない。最もその答えなんて無くてもいいのかもしれないけれど、多分、あった方がいい。自分のためにも、おそらく周りのためにも。

自分のために生きることが苦手ならば、周りのために生きればいいか。それは他者依存であり、もっと言えば利用ではないのか?それでも誰かの役に立つなら良しとしていいのか。

そんな風にぐるぐると考えている内に、労働の疲れがゆっくりと思考を奪い、各停電車の小刻みな揺れが私の瞼を重くする。

日々をこなしていくだけでいっぱいいっぱいでも、明日を探る努力はまだ怠れない。不器用でも歩いていくために、だからの先の答えを、私はもう少しだけ探していたい。

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